2024年1月6日土曜日

【連載】 謎の楽器「ごったん」ミステリーに挑む12 「総まとめ」と、俗説の検証

 

 さてみなさんこんにちは。

 かなり長い期間に渡って「ゴッタン」とはなにか?について検証を重ねてきましたが、正確にすべてが判明したわけではないものの、「おおまか」にはこの楽器がどういう存在であったかについてわかってきたと思います。


 そこで、<総まとめ>をまず書いておきましょう。


■ ゴッタンは、その寸法から沖縄三線の非公式な写し(コピー)であると思われる。

■ 幕府や薩摩藩の管理下にあったものではなく、非公式で非公認の楽器である。

■ おそらくは三線的なものを身近な材料で再現した「杉製レプリカ」であろう。

■ 家督や座頭などの藩公認の盲人音楽は「琵琶」主体であった。

■ 女性盲人の組織はあったが、藩公認に属するというよりは、準じるものであった。

■ バチを使わないことから、琵琶系楽曲とは異なる系統と思われる。

■ 男性は基本的には弾かない楽器である。(のちに家督や座頭に受け継がれる)


 そして、これらから浮かび上がってきた実像としては


■ ゴッタンは、最初から最後まで庶民の楽器である。

■ ゴッタンは愛の楽器である。


ということが挙げられます。


 日本の多くの楽器は、「宮廷楽器」や「幕府や藩などの公認の楽器」から「降りてきた」ものが多くありますが、「庶民のための庶民による楽器」というのは、それほど多くはありません。


 似た歴史を持つものとしては「篠笛」なども挙げられますが、篠笛は、宮廷楽器である「龍笛」などの庶民的写しです。

 逆に尺八などは一見すると庶民的に思えるかもしれませんが、普化宗(虚無僧)に独占的に使用が許されたりしたこともあって、庶民のものではありませんでした。


 篠笛やゴッタンは、民俗的に、庶民の中から自然に湧き上がってきたもの、と言ってよいと思われます。


 では、愛の楽器とはどういうことか。


 これは「男性が本来は弾かない」という点に注目します。男性は弾かないのだけれど、女性や子供のために「男性が作る」楽器なのです。女性が楽器を作ることは、当時もいまも皆無といって良いでしょう。大工や指物師など「木材」を流通によって入手するためにも、男性の職人が存在する必要があるからです。


 文献を読んでいると、ごったんが普及していた時代に、「多くの子女が持っていた」という話もよく目にします。


 つまり、この楽器は、男性が作り、子供に贈る楽器であるということです。あるいはその弾き手は女性であり、女性のために作る楽器であるということになるでしょう。


 またそれが演奏される時には、男性が民謡を歌い、女性が伴奏するという写真も多く目にすることができるのです。


 また、コピーであり、レプリカだったからこそ、「元の形を再現する」ということには、ほとんど重きをおいておらず、形状的にはシンプルです。

 しかし、それが「正式に許された楽器ではない」という非合法性と絶妙に相まって、「これはごつごつした桶である」という言い逃れのゆとり、あるいは隙間を産んだものとなっているのではないでしょうか?


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 さて、ゴッタンは謎が多いあまりに、それにまつわる「俗説」がいくつか見られます。

 その検証もしておきましょう。


『ゴッタンの語源は古弾(グータン)である』

・・・完全に否定するものではありませんが、古弾という楽器の存在を示すものが、今のところ探すことができず、文献にも登場しません。説を唱えた鳥集氏の印象的な仮説と思われます。


『ゴッタンは隠れ念仏の伴奏楽器であった』

・・・戦前の資料には、そうした話は全く見られません。少なくとも、民謡系や現地文化に関わる調査などを見ても、隠れ念仏との関連はないように感じられます。

 おそらくは瞽女歌が「仏教系の口説系音楽」を含んでいたために、念仏とゴッタン楽曲との関連が「想像」されたものではないでしょうか。

 少なくとも、薩摩地方の「隠れ念仏(一向宗)」は秘匿に秘匿を重ねるもので、14万人が弾圧されたという壮絶なものです。洞窟に隠れて、仏像を偽装して隠したほどのものなので「楽器を弾いて音を漏らす」などといった行為は、おそらく考えられません。

 そうでなくても音曲は「風紀を乱す」として薩摩藩では禁じられていた話もあり、矛盾が甚だしいと思われます。


(実は鳥集氏のお父様が、江戸時代に一向宗を取り締まる役職についていたという話があり、そこからイメージが膨らんだものかもしれません)



『ゴッタンは隠れキリシタンの楽器であった』

・・・これも上記隠れ念仏の誤解の変形でしょう。ゴッタンとキリシタンの関係は、文献資料からはまったく関係が見えてきません。


『ゴッタンは大工が施主などに贈ったものである』

・・・これはある意味正しいと思います。楽器製作者によって、公的に製作される楽器ではないため、木工の素養がある者によって作られたのはそのとおりだと考えます。

 また、特に明治以降は、禁制のようなものが解け、音楽が自由になった際には、ゴッタンを作って贈るような風習が生まれたことは想像に堅くありません。

(しかし、施主の当主に贈り、その家のあるじが弾いたかというと疑問です。弾くのはほぼ女性というデータがあまりに多いからです。男性が弾くようになるのは、おそらく戦後かなり経ってからではないでしょうか)

(ただし、ゴッタンと太鼓が床の間に置かれていた、という伝承もよく見られます。沖縄三線では刀に次ぐものとして三線が床の間に飾られた風習が(武士階級を中心に)残っているので、影響があるかもしれません)



『ゴッタンは瞽女の楽器である』

・・・これはある意味正解で、ある意味間違いかもしれません。瞽女がゴッタンを弾いたことは正しいですが、おそらく「瞽女は三味線も弾いた」と考えるほうが自然だからです。

 ある程度、明治以降に本州三味線が流入・定着した際に、ゴッタンとの混在は起きたことでしょう。なおかつ、これも文献を勘案すると「家督・座頭」による琵琶音楽といっしょに「ゴッタンの使用」が混在していったと思われます。

 これは推察ですが、琵琶楽とゴッタン楽はまったく別系統の成り立ちですが、職業音楽として各地で弾く際、いちいち皮張りを行わなくてはならない三味線より、琵琶と同じく総木製であったゴッタンのほうが手勝手がよかった、という面などがあったのかもしれません。

 それは「座頭と瞽女の夫婦」によってなされたものと思います。


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 最後になりますが、ゴッタンはいつ誕生したか?という点についても考えてみたいと思います。

 江戸時代の間は、薩摩藩によってかなり縛りがあり、自由な移動などもほとんど考えられませんでした。

 現存する沖縄最古の三線が江戸時代後期であり、奄美のそれも、おなじく江戸後期に沖縄から買ってきたものとされているので、沖縄と奄美で「三線文化」が公的システムにおいて花開いたのは江戸時代後期と思われます。

 そして、奄美の「家督」が三線を弾いたらしいことから、そこでは琵琶ではなく、三線への移行が進んだことがわかります。


 とすれば、薩摩地方において「そのレプリカを作ろう」という発想が生まれるのは、江戸時代後期から末期ということになるでしょう。

 明治になると急速に「本州三味線」なども流入してきますから、実はゴッタンの存在期間は「それほど長くない」と考えられます。

(そこから、本州式の影響をうけて、棹が長くなってゆくのでしょう)

 薩摩藩における武士の「琵琶楽」の推奨に対して、薩摩藩下における「田舎、地方」に自然発生的に生じたゴッタン文化でしょうから、現実的には


『江戸時代末期ごろから戦前まで』


が、ゴッタンの生きた時代だったと推定します。



 長々と書いてきましたが、今後も調査は継続しますので、また追加の情報が出次第、まとめてゆくつもりです。



(おしまい)






 

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