2024年1月5日金曜日

【連載】 謎の楽器「ごったん」ミステリーに挑む11 薩摩琵琶とゴッタンの関係

 

 さてみなさんこんにちは。


 前回はいよいよ「ゴッタンの語源」ではないか?というかなり濃密な仮説にたどりついたのですが、それは


「ごつごつした桶」


というものでした。


 ではなぜ「てこさんせん」というように、「三味線」という語を知っているはずなのに、ゴッタンは「ごったん」と呼ばれたのでしょう。その仮説として


『なにか、ご禁制のブツだったので、それが三味線であることを隠したのではないか』


ということが推理されたわけです。


 そこで今回は、薩摩藩における音楽状況を、もう一度おさらいしてみたいと思います。


 薩摩琵琶の演奏家である水島さんのサイトでは、琵琶関係の起源が説明されていますが、


https://biwamusic.net/history-of-biwa/biwahistory/


 どうもゴッタンと関係がありそうな話が、ふわっと横たわっています。


■ 奈良時代に楽琵琶が入ってきて、正倉院にある。そこから平安鎌倉期に「平家琵琶」が登場した。

■ 平家琵琶は琵琶法師という盲人音楽となった。そこから九州の盲僧琵琶へとつながる。

■ 室町時代には盲人の職業集団である「当道座」ができた。この「当道座」のもとに琵琶・三味線・胡弓・箏曲などの音楽があった。

(私が最初学んだ地唄も盲人系の音楽である。菓子「八ツ橋」の語源と言われる八ツ橋検校も当然盲人である)

(この連載で述べているシステム管理下・幕府のコントロール下にあったことがわかる)

■ 三味線が入ってきて、琵琶法師たちが新楽器として手を出した。そのため琵琶のバチを流用したり、さわりをつけたりしている。(さわりは琵琶由来)

■ 江戸時代初期、三味線音楽は当然「盲人」が担っていたが、公的な「座」に属しているものと、モグリの盲人との間でトラブルが生じた。その結果、座に属していない盲人は「宗教的音楽しか演奏してはいけない」と定められた。

(公認琵琶法師と、非公認の琵琶法師が分けられた。モグリのほうは、宗教的音楽しか弾けなくなった。もし、ちがう楽曲を弾くと、捕まるということである)

■ 非公認の琵琶法師は、琵琶に柱をうちつけることと決まった。柱のない三味線は、公認琵琶法師しか弾けなくなったということである。

■ 一時期、柱のない琵琶と三味線は「似た存在」であったということになる。

■ その後、薩摩藩では藩と関わり「薩摩琵琶」「筑前琵琶」などへと展開していった。


 さて、同様の内容ですが、

http://www.yo.rim.or.jp/~kosyuuan/kosyuan/rekisi.htm


にも、興味深い話が出ています。


■ 箏・三絃は明治になるまで、ほぼ盲人専業として保護されていた。

■ 地神・荒神を祀るのに、琵琶音楽が用いられた。

■ そこから平曲(平家物語)が生まれる。

■ 当道座、専業は「男子のみ」であり女子は不明だが、「ごぜ」というもう少し小さい地域組織があったようだ。

■ 三味線については、琉球三線がベースで、琵琶法師が改造を施した。

■ すべて検校(盲人演奏家)が関わり、三味線音楽が浄瑠璃系や柳川系へと発展していった。

■ 江戸中期までは、歌舞伎や人形浄瑠璃関係でも、音楽は当道座が独占していた。

■ 歌舞伎関係者が「教わろう」としてもはねのけられた。そこで幕府に仲介を願い出て、幕府のあっせんで「歌舞伎関係者が音楽を教わる」「当道座系の音楽を演奏できる」ことができるようになった。

■ それでも当道座と芝居が一緒に営業することは禁じられていた。



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 こうしたことを勘案すると、琵琶であっても三味線であっても、基本的には「公システムのコントロール」を逃れられない状況であったことがわかります。


「文化圏を超える口承文芸」下野敏見

https://ko-sho.org/download/K_029/SFNRJ_K_029-06.pdf

 

さらに、日本口承文芸学会の上記論文では、もっとすごいことが書いてあります。

 

■ 薩摩では「川辺ザッツ、知覧ゴゼ」と呼ばれた。(ザッツは”座頭市”の座頭である)

■ 薩摩・大隅・日向・諸県の盲僧は「家督」という。彼らは戦国時代に島津のスパイとして活躍し、土地や寺院や米をもらう権利を得た。

■ その権利を受け継ぐので「家督」なのである。


 その後で、荒武タミさんの話も出てきますが、そうなるとやはり基本はザッツやゴゼも、「公的システムに組み入れられている」ことがわかります。なおかつ、元々はスパイとして権利を得たというのですから、すごい話です。


 はたまた、おもしろいのは


■ 奄美にも家督はいて「ダットどん(またはガット)」と呼ばれていた。

■ こちらのダットどんは「三線」を弾いている(年代は不明)


ということです。昔話のニュアンスで語られる芸能なので、ふつうに考えれば、これは江戸時代の話と思えますが、ここでは「家督が三線」を弾いていることがわかるのです。


 もちろん、こうして考えると「ゴゼ」として荒武さんが三味線やゴッタンを弾くのは、自然な流れですが、彼女の経歴を考えるとすでに「組織化されたゴゼ」の時代は終わっており、彼女は薩摩瞽女の系譜にあるけれども、組織化された瞽女の中にいたというよりは、その名残を受け継いだのではないだろうか、という疑問も浮かんできます。


 上記論文の中には、「家督どんのシステム」のほぼ最後に組み込まれていた男性・富貴島さん(大正5年生まれ)の話も出てきますから、家督どんが「メジャー」であるとすれば、荒武さん(明治44年生まれ)は「インディーズ」だったのではないか?とも思えるわけです。


 富貴島さんは、盲僧琵琶の弾き手であった、という点も「家督・座頭システムのシステム管理下」っぽさを感じるのです。(やはり、ここは三味線ではない)


*「西日本民俗博物誌 下」(1978)では 「ザッツどんは琵琶で、瞽女は三味線である」旨の棲み分けがあっただろうことが暗に示されている。

”座頭は琵琶を弾く盲僧であり、ゴゼは三味線を弾く盲女のこと”

”家督殿は士族待遇”


*「南日本の民俗芸能誌 北薩東部編」(2014)では

”座頭のことで、琵琶(のちはゴッタン〈板三味線〉)を弾いて回った。”

と、当初琵琶弾きだった座頭が、のちにゴッタンを弾いたことが書かれている。


*「潮」(1979)には

”私が少年の日に見聞した薩摩瞽女は、ほとんど座頭とごぜの夫婦者であった。ごぜの弾いていたのが三味線でなくて<ゴッタン>という楽器であったとは初めて知った。”

とあり、座頭と瞽女の夫婦があったことも示される。


 もしかすると、そこで座頭とゴッタンが出会った可能性もあるでしょう。


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 今回の話を全体としてまとめると、以下のようなことが見えてきます。


■ 近世以降の音楽は、基本的に盲人によって管理下にあり、それは幕府などの公的システムのコントロールを受けていた。

■ それらは主に男性中心であり、女性はおそらくは似た組織である瞽女システムに属していただろう。

■ 薩摩藩では、とかく「琵琶」が公的音曲であった。島津のスパイを経て「家督」と呼ぶくらい封建化されていた。

■ 奄美でもおなじシステムがあったが、そこで登場するのは「三線」であり「琵琶」ではない。

■ ゴッタンは、公的にも私的にも「琵琶と三線(三味線)」のハザマに落ち込んでいる楽器である。

■ しかし、ゴッタンにはバチが登場しない。これは、男性で、なおかつ琵琶法師である家督や座頭が本来は「扱っていない」ことを暗示する。


 家督どんや座頭のシステムに「ゴッタン」が登場しないのは、やはりこの楽器が、


「とても私的で、とてもインディーズで、とても非公式な楽器である」


ことを示しています。


 これは前回までの「推理」である、


『ゴッタンは私的な、沖縄三線の模倣品である』


ということと、ほとんど矛盾しないと思われます。


(つづく)






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