2008年2月26日火曜日

【三線ism】 三線の哲学 三味線の哲学




 さてみなさんこんにちは

 今日はちょっとばかりふだんの三線や三味線に関わる事を哲学的に追及します。というわけで文体も常体に変更(^^


 「三線の哲学 三味線の哲学」

 国際通り三味線店というお店が那覇に昔あって、今は首里に移転されているので「首里三線店」になっていると思う。
 その三線店の店長氏が昔ブログに書いておられたことが目に止まったので、出典とともに引用しておく。http://www.kokusai34.com/memo/archives/2002/12/otb.php

 『三線の奏法にまだまだ開発の余地があるだろうとは思うが、西洋楽器や津軽三味線でやっていることの真似事をなぜ三線がしなければならないのか、私には理解できない。ギターやウクレレで和音(コード)奏法があるからといって、三線で和音の追求をしなければならないとはまったく思わない。それらはギターやウクレレにまかせておけばいいと思う。津軽三味線が高音部分でのさまざまなテクニックを駆使しているからといって、三線でもそれに負けないようにやらなければならないとは全然思わない。こっちは唄って弾いているのだ。そして、泣かせもすれば、躍らせもするのだ。どだい芸能の種類が違うのだから、同じようなことをやる必要などまったくない。どうして、比較しようとするのか。勝ち負けを云々するのか。
突然声をかけてきて、そんなことを言い立てるバンドマンなる人がいた。ほっとけという感じだ。「邪道だと言われるかもしれない」と言う。邪道なぞに付き合っている暇はない。わたしは本道を地道に行くだけだ。大人も子供も同じことをやっていると言う。テクニックがないと言う。初心者と玄人(苦労人)を一緒にしてほしくない。そもそもなにをもってテクニックと言っているのか。どこを見てそんな風に言えるのだろうか。運指ひとつ、バチの使い方ひとつにも、先人の工夫があり、現役の追求がある。そんなに簡単に言って終わりにできるようなものではない。ちょっと他の楽器ができるからといって、三線を同じような楽器の一つだと甘く見ている。楽器の一つには違いない。それぞれの楽器にそれぞれの工夫と修練があるように、三線にも独自の技術と伝統があるのだ。こういう人にはまったく頭に来る。
津軽三味線のように弾きたければ弾けばいい。別にそれを否定しようとは思わない。しかし、どんなにがんばってもその分野では津軽三味線にかなうものではない。かなわなくて当然で、それでいいのだ。果ては、津軽のように弾くために三線の構造を改良せよと言う。それは改良とは言わないだろう。それも別に否定するものではない。やりたい人はやればいい。私は必要を感じないばかりか、そんな暇もない。やるべきことはまだまだたくさんあるからだ。2002年12月04日』

 この文章は2002年のものなので、当然左大文字流は発表していないし、店長氏もおそらく私のことをご存知ないと思うのだが、いろいろと思うところがあったので、考え込んでみた。

 物事には見方というものがあって、たとえば練り歯磨きのチューブは、ある方向から見たら丸で、別の方向から見たら三角で、さらに角度を変えれば四角に見えるものである。

 そういう意味では、私はこの店長氏の意見に大いに賛同するし、三線は三線、ギターはギターという意見にも、三線に別のテクニックを取り入れる必要はないという意見にも、津軽と争う必要はないという意見にも拍手喝采な気分である。それは、三線が好きで15年前から沖縄に行っては三線を漁っていた少年の私の本音だし、古典と沖縄民謡を愛する者の本音でもあると思う。

 しかし、現実の私は、店長氏のもっとも嫌いなことをやっている。とすれば、私は店長氏の意見と対極にあるということになってしまうかもしれない。
 私はギターのように三線(三味線)を弾きたいし、クラシックギターのテクニックを取り入れているし、旧来の三線・三味線のあり方と争って(?)いるからである。

 ところが、これは話のベース・土台が違うのである。三線や三味線を伝統芸能と音楽のベースで語れば、店長氏の意見が大いに正しいし、それはいつもいけばな家元君と議論していることとおんなじなのだ。つまり、伝統が培ってきた技能や技術の集大成が、いかに確立されたものであり、いかに受け継ぐべきものか、という視点が、そこにある大きな土台というわけである。

 一方、くだんのバンドマンさんが思ったり感じたのは、ポップスや現代における音楽のあり方における三線の位置付けであって、そこには、伝統から脱却し、なにか飛び出したい、あるいはそのためにボーダレスな動きをしたい、という「今」「現代性」を土台にした議論なのである。

 先日、沖縄出身の弟子さんと話をした中に、「沖縄の三線師匠の中には、喜納昌吉さん以降のポップス民謡をすべて否定する人もいますよ」という話題もあった。
 伝統と現代のせめぎあい、みたいなものは、実は廃れようとする伝統の苦悩と、温故知新に挑戦する現代の手探り感の表れでもあると思う。

 しかし、ぶっちゃけなところ、こうした議論は時代が解決してくれるのかな、とも思う。クラシックギタリストは、フォークやロックのギタリストに、もうあれこれ言わない。それは時代が解決してくれたそれぞれの楽しみであり、それぞれのあり方だと確立してしまったからだ。
 長唄の三味線弾きも、津軽の人に「その弾き方はどうだ」とか「こうだ」とかもう言わない。そんな議論は時代が解決してくれている。

 でも、店長氏が2002年にこうした意見を述べたということは、三線が伝統ではなく「今を生きている」証でもあると思う。それは、すばらしく、そして美しいことだと実感する。 



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