2023年12月29日金曜日

【連載】 謎の楽器「ごったん」ミステリーに挑む04 文献に現れるゴッタン・ごったんの演奏

 

 さてみなさんこんにちは


 ごったんを追いかける旅はまだまだ続きます。


 荒武タミさんの演奏しか記録上は残っていないと思われる「ゴッタン」の演奏の実態ですが、参考までにCBSソニー版のレコードに収録されている楽曲をまずは挙げておきましょう。


お夏くどき(よのえぶし より)

島ぶし

明鳥~小野小町(おちえぶし より)

はんやぶし

鹿児島よさこい~密柑くどき~夜這いくとき(よさこいぶし)

賽の河原~だらけ(おちえぶし より)

三下り

荷方ぶし

とっちんぶし

お末くどき(よのえぶし より)


 もちろん、これ以外にも荒武タミさんのレパートリーはあったと思いますが、とりあえずは文献に現れたもので、ゴッタンで演奏されたらしき楽曲を挙げてみます。


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『加世田市史 上』 1986

■ 日露戦争の出征において二十三夜に武運長久を祈り、小宴を開いてゴッタンなどを鳴らした 明治37年〜

”二十三の待ちや誰が身のためか 可愛い我が子の身のためじゃ”

(俗謡のようなものか)


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『九州・奄美・沖縄におけるラッパ節の流れ』 小川学夫 鹿児島純心女子短期大学研究紀要 第36号

■ ”曽於郡輝北町本町明治38年生まれの女性が伝承する「ラッパ節」

(本来ゴッタンで演奏される旨が書かれている)


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『月刊楽譜23 5月号 昭和9年5月』

■「オハラ節」

(板三味線を「コツタ」と称することが書かれる)


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『郷土舞踊と民謡 第8回』日本青年館 昭和9

■ ”都城市外中之郷字安久のヤツサ節 「オハラ節(ヤツサ節)」「ハンヤ節」「シヨンガ節」”

(ゴッタンと十二夜待太鼓が伴奏に使われる旨が示される)


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『大口市郷土誌 上巻』 1981

■ 戦前の話として菱刈町水天の祭りで、各地から馬を出して「馬踊り」がなされたとのこと。ゴッタンの音と合わせて「道化踏み爺さん」のあとに続いて娘たちが「松島節」などを歌って踊る。馬について歩いたもの。


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『南日本民謡曲集』久保けんお 音楽之友社 昭和35

■ 「(桜島の) 島廻り節」

*ほかにも掲載曲は多数。ただしゴッタンでの演奏か判断しにくい。



(2尺の”ものさし”の隣にゴッタンが写っている。推定全長2尺5寸。鹿児島の古い家では、ゴッタンと十二夜待太鼓<ジンニャマッデコ>が床に備えてあったことや、古型のゴッタンはもっと短かったと古老が話している件などが添えられている)


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『南日本風土記』 川越政則 至文社 昭和37

■ 「ハンヤ節」

*その他の掲載曲も多いのだが、ゴッタンだけで演奏されるものか判然としない。

(てこ・さんせん・なんこだま が三種の神器である、という話が出てくる)

(また、鹿児島では男は三味線を弾かない、とする)

(ゴッタンの写真も掲載されている)


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『日本の民謡』角川新書 服部竜太郎 昭和39

■ 「おはら節」「鹿児島よさこい節」「ハンヤ節」

(酒宴には「テコサンセン」が決まってでてくる話も載っている。この場合のサンセンとは板三味線のこと)

(大隅半島大泊での酒宴の写真あり ゴッタンが写っている)


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『佐多岬 野田千尋  南日本出版文化協会 昭和41』

■ 「潮替え節」

(日高正之進さんという方が潮替え節を歌う件が書かれているが、演奏は女性で、正之進さん本人は弾いていない 写真あり)


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『民謡のふるさと:明治の唄を訪ねて』 服部竜太郎 朝日新聞社 昭和42

■ 「汐変え節」「ハンヤ節」「鹿児島おはら節」「その他俗謡」

(ゴッタンが普通の三味線より「ずっと短め」であるとしている)

(おなじ著者服部竜太郎氏なので、大隅半島でのおなじ写真が掲載されている)


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 さて、文献を概観していて気づくことがいくつかあります。


 まず、演奏される楽曲については、「ハンヤ節や鹿児島よさこい節」など、荒武さんの演奏と合致するものもありますが、そうではない楽曲もちらほら散見される、という点です。


 加えて、荒武さんの演奏楽曲には「口説」系統の演目が多く感じられますが、これはいかにも「瞽女唄」らしい楽曲と見受けられます。


*日本語大辞典より

① =くどきうた(口説歌)

 長編の叙事歌謡。七七調、または七五調の詩形が多く、同じ旋律を繰り返してうたう。踊りを伴うものが多い。盆踊りにうたうものを踊り口説、木遣(きやり)にうたうものを木遣り口説、くどき木遣という。

② 江戸後期に流行した俗曲。心中事件や世間の話を長編の歌物語に作って、瞽女(ごぜ)などが三味線に合わせてうたったもの。鈴木主水(もんど)、八百屋お七などの事件がとりあげられた


 簡単に言えば、たとえば講談や落語のように、「聴衆に向かって語って聞かせるもの」が口説系の楽曲であり、庶民が自分のために歌う楽曲ではない、ということになるでしょう。


 庶民の地場の音楽であれば、労働唄がベースであったり、はやし唄がベースであったりするわけですが、荒武さんの楽曲の半数以上?は、「物語を、お金を払って、聴く」という形式のものであった可能性があるわけです。


 このあたりが、プロの楽曲らしいチョイス、ということになるかもしれません。


 さらに、いくつかの文献を総合すると、「ゴッタンは男性は演奏しない」という点が見えてきます。「鹿屋市史 上巻」にも

”板だけで作ったごったんは、女の子なら必ず持っていた”

とあり、女子や女性のたしなみとしての「ゴッタン」像はいくらでも出てきますが、男性は民謡は歌ってもゴッタンは演奏しない、ということがわかります。


 残っている写真をいくつか見ても、男性のとなりで女性がごったんを弾いている写真ばかり、ということが、ある意味では特徴的だと言えるかもしれません。


 琉球王国においては、いわゆる沖縄三線は武士にとって刀に次ぐものであり、逆に宮廷音楽として定着し、初期には庶民は正式な三線を弾いていなかった歴史があります。また三線は「男性用」であったともされており、ごったんとは真逆でした。


 また、薩摩藩の場合、「薩摩琵琶」が男性用・武士の楽器として定着しており、ごったんとの対比は、そのあたりにも原因があると推定されます。


 そうして考えると、江戸時代の薩摩藩の音曲禁止の期間などを勘案した場合、藩に保護された薩摩琵琶に対して、ごったんは、ある意味「極めて短い時間しか広まらなかった」可能性もあるかもしれません。

 薩摩琵琶ですら、現代においては消滅の危機に瀕していますから、ごったんが「謎の楽器」になってしまったのは当然と思われます。


 逆に考えると(おなじ薩摩藩支配を受けた)沖縄において、三線が宮廷楽器・武士の楽器から庶民に「降りてきた」のは、もしかするとラッキーなことだった可能性もあるわけです。


(つづく)

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