2023年12月30日土曜日

【連載】 謎の楽器「ごったん」ミステリーに挑む05 ゴッタンは「いつ」の楽器なのか?

 

 さてみなさんこんにちは。


 前回までの調査で、ごったんは主に女性が演奏する楽器であり、男性はあまり触れなかったらしい、という視点が飛び出しました。

 また、薩摩藩では基本的に音曲は禁止されていて、「侍踊り・薩摩琵琶・天吹(笛の楽器)」のみが主に武士に許されていたらしいこともわかってきました。


 そうすると、ごったんは「いつ・誰が演奏したのか?」という謎が新たに出てきたことになります。


 そこで、ごったんの原型であると思われる、琉球三線の歴史とともに、この謎に迫ってみたいと思います。


 沖縄の三線は、中国の楽器「三弦」がもとであることは明白です。15世紀ごろに、中国から琉球に入ってきて、宮廷音楽へ取り入れられたのが17世紀ごろ。琉球王朝では正式に三線に関わる役職が作られていたので、この楽器が貴族階級や士族階級に付随するものであったこともわかっています。


 庶民へ三線が降りてきたのは明治以降で、琉球処分によって士族階級が解体されたことで、三線の音楽が庶民へと伝播します。もっとも、宮廷音楽と庶民の民謡は別物ですから、民謡そのものは先にあったものが、三線の伴奏と合体してゆく過渡期もあったと考えられます。


 実際に現在でも沖縄三線を学ぶと「宮廷音楽」と「沖縄民謡」のどちらにもアクセスすることができます。


 余談ながら「沖縄で最も古い三線」は1825年(江戸幕府における文政8年)製の胴がついたもので、文政年間は江戸後期ですが、私のひいひいおじいちゃんの生まれた時代なので、「意外と最近」と捉えることも可能です。


 そう、伝統と我々が思っているものは、基本的には「意外と最近!」なことがあるのです。


 沖縄三線ですら、実は庶民においては「明治以降」に広がっているのですから、この視点は重要です。


(薩摩琵琶は、室町時代に武士向けに整えられていった歴史があり、比較するととんでもなく差があります)


 しかし、「本州の三味線」となると面白い事実があります。現存する最古の「三味線」は、慶長2年(1597)に秀吉が淀殿のために作らせたもので、「淀」と呼ばれています。この時点で形状が今の三味線とおなじであることから、戦国末期(江戸初期)には本州型三味線は完成していたことがわかるのです。


 また、この段階で、沖縄三線と本州三味線の形状がかなり合理的に似ていることから、沖縄「三線の古いものは現存はしていないものの、なんらかの関係があるだろうことは想像できる」、ということになるでしょう。


 *三線と三味線の形状特性は

■ 天神のカーブ高さが、胴厚みとおなじ寸法になっている。置くと平行になる。

■ 糸巻の数と位置が同じ。

■ いずれも乳袋がある。

■ いずれも猿尾がある。

■ 三味線には「さわり」があるが、これは琵琶の影響を受けている。三線にはない。

■ 本州三味線のバチ形状も、琵琶の影響を受けている。三線はバチが異なる。

(これらを勘案すると、基本的に同一形状の楽器と推論しておおむね問題ない)


 そうすると、少なくとも「戦国時代に三弦が中国から入ってきて、沖縄では三線になってゆき、本州では三味線になっていったが、どちらも共通形状である」と言えるわけです。


 ここにゴッタンがどう絡んでくるのか、という視点が重要ですね。


 文献資料の上から見ると、古いゴッタンは「胴が箱」形状です。そして「天神カーブ」が存在せず、糸蔵部分がやや棹より大きくなってはいるものの、天神の形状ではありません。つまり、床に置いた時、天神カーブがないので、胴と棹頭は平行にならず、コケてしまうのです。

 「さわり」がないことは沖縄三線と共通しています。

 寸法は、古いものほど沖縄三線に準じる長さである旨が多くの資料で示されます。


■ 天神はない。カーブのないヘッドがあるのみ。

■ 糸巻きの数と位置は同じ

■ 乳袋はない(可能性大)

■ 猿尾はない(可能性大)

■ 「さわり」はない

■ バチは使わない


*ちなみに中国三弦は

■ 天神がある。日本のように月形にはなっておらず直線的

■ 糸巻きの数と位置は同じ

■ 乳袋がある

■ 猿尾がある。

■ 「さわり」はない。

■ バチは使わない

となる。


 そして、ゴッタンをつぶさに観察していると、近年の作例になればなるほど


■ 胴が丸くなる

■ 天神がつく

■ 乳袋や猿尾に似せた形状が登場する


ということもわかります。そうです。これは「本州の三味線の形状の影響を受け始めた」可能性があります。

 このことを補完するように、「ゴッタンの棹長さは、長くなってゆく」のも時代の流れと関係があるらしいのです。


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 さて、ここで少し視点を変えて寸法からゴッタンの謎にアプローチしてみましょう。

 本州の三味線は「三尺二寸」とされ、全長が100センチ程度であることがほとんどです。

その中で、すこし古い形状を残しているとされる柳川三味線では98センチとか97センチくらいのものがあります。


 ゴッタンは現行のものは90センチから92センチ程度のものが多いようです。基本的には本州三味線より「確実に短い」ことが見て取れます。


 中国三弦は、バリエーションが多く、90センチから120センチ程度まで種類があります。一般に南方のものは短く95センチ程度で「小三弦」と呼ばれ、北方へ行くと長くなって120センチ程度で「大三弦」と呼ばれます。(人差し指につけたバチで弾くらしいので、これは沖縄と共通です)


 この長さと地理的な関係は、日本でも似ていますね。南のほうは小さく、北のほうは長い、という関係性です。


 これらの中では沖縄三線が一番短く、75センチから80センチ程度です。私もこの長さの歴史はいろいろ調べているのですが、沖縄国際大学の又吉光邦さんの研究を考慮すると、旧尺で74.45センチ、新尺で75.75センチが、正しい?沖縄三線の全長であろうと推定できます。

(旧尺は、琉球王朝時代の尺で、29.78センチ・現在は1尺=30.3センチ)


 さて、この寸法。旧尺でも新尺でも、沖縄三線の全長は2尺5寸になっています。ここで思い出してください。

 ゴッタンの古いものも「2尺5寸」であった、ということが書かれた文献が前回も出てきましたが、おそらくゴッタンの原型は、沖縄三線のサイズと深くかかわると思われます。



「日本民謡全集 九州・沖縄編 1975」には

”ゴッタン"というのがある。素朴な板張り三味線のこと おそらく琉球三線が近畿方面に流入する以前、薩摩では琉球三線を模して名産の屋久杉などで胴を板張りにしたものであろう。

とありますが、おおむね支持できるとは思います。(近畿方面に流入する以前かどうかはわかりませんが)


 ところが、もともとは短かったものが、本州の三味線の影響を受けて「長くなった」可能性があるのではないでしょうか?とすれば、その時期は推理できます。


 『江戸時代は基本的に音曲が禁止されていた薩摩藩なので、ゴッタンは表舞台には出てこない』

『明治になると、文明開化と薩摩人の中央進出の影響で、本州文化が入ってくる』

『ゴッタンが、本州三味線の影響を強く受けはじめる』


という流れが見えてきます。


 そうすると、いったん仮の推理として


■ ゴッタンの原型は、沖縄三線と深くかかわるだろう

■ 明治以降、本州三味線との関わりが一気に増えただろう

■ 士族は基本的にゴッタンを知らない。また男性もゴッタンとの関わりが弱い


といったことが言えるかもしれません。


 では、もういちど楽曲に戻る必要がありますね。それは「ゴッタン」は何を弾き歌うための楽器なのか、ということです。


 薩摩琵琶であれば、藩によって奨励された「合戦物」や「敦盛」などの曲目がスタンダードとして挙げられます。楽曲と楽器は密接に結びつくことでしょう。また、薩摩琵琶は、日本でももっとも古い「視覚障害を持たない人たち<武士>の音楽と楽器」であることがわかっています。

(それ以外の琵琶音楽は、盲目の人たちの専業音楽になっていたからです)


 謎が謎を生む展開ですが、まだまだ続きます。


(つづく)






 

 

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