2008年7月16日水曜日

【三線ism】  肝臓ガン



 さてみなさんこんにちは

 先日急に親父から聞いたのですが、わたしの親族が、急に体調を崩し、慌てて病院へ行ったら肝臓ガンで余命1か月と宣告されたそうです。

 その人はまだ71歳で、直前まで元気でぴんぴんしていたそうですから、人間というのはわからないものです。もっとも、うちの父方の家計は肝臓が弱いらしく、祖父も肝硬変で亡くなったし、親父も私も肝臓があまりよくありません。

 しかし、毎年健康診断を受けて、とくに数値に異常がなかったのに突然のことだったというので、いろんな想いが去来します。

 自分があと余命1か月だと聞かされたらどうするか。・・・そういうことを思わず考えてしまいました。

 人生のプロセスをどう生きたかに焦点をあてる人もたくさんいると思います。それとは逆に、人生の結果として何を残したかに着目する人もこれまたたくさんいるでしょう。

 しかし、余命一ヶ月と聞かされた人が、仮にとても充実した人生を過ごしていたとして、それでもやっぱり「遣り残したことはないか」と考えてしまうのではないでしょうか。不満な人生でも、満足な人生でも「残された時間で何かをなさねば」と思うのだとしたら、私たちは「生の証拠」みたいなものに執着してしまうのかもしれません。

 翻って、私たちが毎日接している「三味線」という文化は、これは先人によって残されたものです。すでに伝統文化などと言われていることからわかるように、これは先人たちの残した遺物といっていいでしょう。三味線文化がヒットチャートと呼ばれることはけしてないでしょうから、やっぱりこれは基本的に過去のものなのかもしれません。

 でも、それが確かに残っている。これはすごいことだと思います。後世の私たちがその曲や楽器を演奏していることそのものが、「残された生の証拠」かもしれません。

 私が、もし余命1ヶ月と宣告されたら、きっとすべてを差し置いて一人でも多くの人に「三味線コード弾き」を伝えようとすると思います。

 もし、この演奏方法が後世に残ったら、文化を残せたとしたら、それは先人が残した伝統文化のように、とてもすごいことだと思うからです。


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